Oh My God.

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学生の頃に、渋谷の路上でイタリア系のお兄さんに売りつけられたチョーカー。
なんとなく大事にしてるけど、なんで大事なのかはわからない。
でもこれをなくしたら、たぶんものすごく落ち込むんじゃないだろうか。
なくしたことないからわからないけど。
なくしもの大王のわたしが一回もなくしたことがないほど大事にしてるのだ。
でも、なんで大事なのかはわからない。

私はさほど敬謙とは言えないまでも仏教徒を自負していて、
だからこそそれなりの生き方や考え方をしたいと願っているんだけど、
人生でたった一度だけ、本気で「神」に祈ったことがある。
祈ったというか、語りかけたというか、ともかくキリスト教的なイメージの祈りを。

あんまりにもどうしようもなくて、つらくて苦しくて死んでしまいそうだった。
仏教的に解決しようとするとあまりに途方もなく、時間がかかって、
もうそんな時間は残されていないと思うほど追い詰められていた。
何に追い詰められているのかもわからなかったけれど、
その正体や原因を見極めて対峙しようとするには、
私はあんまりにも疲弊していて、もう虫の息だった。
おぼろげに、どうしたらいいのかは解っていたけれど、
その決断を下すだけの勇気が、その時のわたしにはなかった。
でも、その選択をしないまま生きていけるとも思えず、
それならいっそここで死んでしまえばいいのだと本気で考えていた。

それで、祈った。
一体自分が何に対して祈り、問いかけたのか、今となってはわからないけど。
それから少しずつ視界が開けていったのは確かだ。
あれが自分自身との対話だったとしても、それでも語りかけたモノは自分の外にあったのだと思う。
だとしたら、自分自身というのはこの皮膚より内側だけではなく、
この皮膚より外側にも果てしなく広がっているのかもしれないと。
そんなふうに考えたのも、あのどうしようもなく苦しかった数週間のことだ。

あのあともそれなりに苦しみはあったし、それはまだ尾を引いているけど、
そのどれも、決してあの時ほどではないはずだ。
まあ……ドカーンと苦しいわけじゃない代わり、じわじわ絞められてる気はするけど……。

イスラーム

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和尚さんおすすめの井筒先生の本読んでるけど面白いなー。
大学でも「宗教相対論」って講義とったけど、
だいたい仏教とキリスト教とか、仏教と神道とかいう話しだったもんな。
仏教を勉強する上でキリスト教の話って結構出てくるんだけど、
イスラームの話しはあんまり出てこないから謎だったのよね。
想像つかない部分多かった。
なんかいろいろ納得できてて嬉しいです。
ありがたい。
最近、新聞でもイスラム国関連の記事が載らないことないけど、
その辺の合点がいくことも多くて助かる。

以前、トルコ人のムスリムの方とちょっと親しくする機会があったのだけど、
考え方があまりに違いすぎて結局ケンカ別れみたいになったのも納得したよ……。
あの時は本当にぶちギレたけど、いまなら少しくらい歩み寄れそうな気がする……。
気がするだけでやっぱりぶちギレるかもしれないけど。

余談ですが、岩波文庫は一度発行されたら絶版にはならないそうです。
改訂はあるけど。
何かの理由で書店からの返本が出来ないらしく、
岩波文庫が充実してる本屋は変な本屋だから良く見てみるといい、
って話を誰かから聞きました。
そんな理由で、岩波文庫の本は後回しにしがちなんですけど、
これはおすすめされてすぐに買って良かったです。
おもしろいよ。

今日も今日とて池袋に行ってましたが、見事にアテがハズレて途中で抜けちゃいました。
まあ、アリかもしれないけど、わざわざお金出して聞きに行くほどでもなかった。
まあこんな日もあるわ……。

空気中の宗教

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父が急逝してからもうすぐ5年が経つ。
ある日実家に帰ると、母が一枚の写真を見せてくれた。
父と海外旅行に行くため、パスポート申請に必要な写真を写真館で撮った。
その時にサービスで撮ってもらったポートレートだという。
死んだらこの写真を遺影に使って欲しいとのことだった。
「お父さんの隣に飾るのに、おばあちゃんじゃ嫌だから」
なるほど、確かにそうだと思って「解りやすいところにしまっておいて」と言った。

幼少の頃から、周りに高齢の親戚や家族が多かったから、
割合とコンスタントに親しい人の死に遇ってきた。
自分も心身共に弱かったからか、死はいつも隣に寄り添っている親友のようなものだった。
そして私は「宗教」と呼ばれるものを学ぶに至ったが、
それは「悟り」だの「救い」だのとは程遠いものだった。
面白おかしい話しなどない。
とても普遍的で、ありふれて、だからこそ普段は気にもとめないような、
ごく身近にある取るに足りないことこそが、私の「宗教」だった。

私の病気や歯の問題(※)のことで、母がよく「ごめんね」と言うので、もうやめてくれと言ったのはいつだったか。
(※生まれつき永久歯が1本足りないことが解ったのが小学生の頃、
親知らずが非常に厄介な感じになっていて外科手術で抜歯したのが数年前、
去年ようやく乳歯を抜いて入れ歯デビューをした)

病気だからこそ得るものは大きい。
これからの時期は特に装備が充実するから、うっかり人助けをしてしまうこともある。
ある程度は自重するし、倒れる前に何となく対処が出来る。
そして何より、老後の心配が要らない。

今日は酷い熱が出た。
日中ずっと布団の中で唸って、夕方何とか買い物に出歩き、
食べ損ねて液状化しかけていたモヤシを焼そばに入れて食べたら、
なんとか落ち着いてきたので漸くのようにだらだらしている。
何だか精神的にエキサイトするとガーッと熱が出てしまうようだ。
参った。

「宗教」の定義はさまざまにあるのだろうが、無理矢理に定義づけするようなことが好きじゃない。
既存の概念にきちっと分類し尽くすことが「見える化」か?
自分に都合の良い解釈を求めるあまり、面白おかしい話題を無理矢理組み合わせるのは、
かつて失敗してきた、今もどこかで失敗している、「カルト」と同じ思考回路だ。
気を付けないと自分が自分に洗脳されて取り返しがつかなくなる。

つまりそんなことで、熱が出たらしい。

自分で考えなさい、と。

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たとえそれが正しいことであっても、疑いを持って聞けば疑わしく聞こえる。
何もかもに疑いを持ったままでは、たとえ現場に足を運んでも疑いは晴れない。
「今のままの状態で何度足を運んだところで、それは不安材料を増やしてるだけじゃない?」
とは、ウシロノヒトの指摘であります。まあね~…。
本を読むにしてもそうですね。多読は必ずしも良い事じゃないってのはそういうことで。

ひかりの輪や上祐氏への疑念は、そろそろもうアレしてもいいんじゃないかと……。

このGW中にセミナーに参加されてた(一般の)方とお話していて、
いろいろと教えていただくことも多かったんですが、
それを自分なりにまた再度確認したり考えたりしているうちにね。
ふと、ある基準を思い出してさ……。
そしたら、公式ウェブサイトのトップページを見たら一目瞭然だったというか。
あー、こっちにはあるなー、こっちにはないなーっていうものがさ……(何。

「ひかりの輪」GW集中セミナー

5月2日の昼から終日と、今日5月5日の昼からの講話のみ参加してきました。

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東京本部道場どーん。1Fに道場があります。
2日の昼は、入り口付近(警視庁の詰め所があります)に公安の職員の方と、
あとビデオカメラを構えた取材の方(?)がいらっしゃいました。
GWの大きなイベント初日ってことで人が多かったんでしょうか。
今日の昼は2,3人しかいらっしゃらなかったけど、2日はいっぱいいたなー。

上祐氏の講話はネットでも無料公開しているとはいえ、
よっぽど興味がなければUstを見ようとも思わないだろうし、
塀で囲まれた向こう側の道場で何をやってるかなんて見えないから不気味だし、
団体側がオープンにしていても、閉ざされていってしまう部分は感じました。
見えないから不気味、見ようとしないから見えない、気味の悪いものは見たくない。
うーん、まあ、そういうもんですがね……。

実際には、何か特別なことをしているわけではないです。
講話を聞いたり、ヨーガの簡単な体操をしたり、近くの公園を散策したり。
あとは道場についたてを立てて個室を作り、その中で考え事をする修行とか……。
はたから見るとこれが一番特異だったかなと思うんですが、
これは自分が今持っている苦しみや問題について考え、
それを教本で説かれている法則に当てはめて、解決する考え方を探すというものです。
わたしが参加したときは2時間程度でしたが、普通はもっと長いとのことでした。
これは、「教本で説かれている法則に当てはめる」というところを除けば、
普段、私が後悔日誌に向かって延々とやっていることです……。うーん。

テキストに書かれていることが全て正しいとは思いません。
しかし誤りであるとも言えませんし、それを指摘できるわけでもありません。
ただ、明確に誤りではないということが、正しいということの証左でもないと思います。
上祐氏の言っていることが全て正しく、迷ったときには必ず導いてくれると思ったり、
過ちや罪があったときには、偉大な何かに対して懺悔すればよいと思ったり、
霊的な目覚めのある人の方がない人より上位だと思っていたり、
もしもそういう考え方を持つのであれば、わたしはそれは誤りであると思います。
たぶん、ひかりの輪ではこういう考え方はしていないと思いますが、
もしもそういう部分を見つけた場合には、私はそこを取っ掛かりとして、
誤りを探していくことになるんじゃないかなと思っています。
ないとは思うんですが……。

そういう些細な疑いを持つきっかけは「質疑応答」の場面です。
講話のときに、何か質問はありませんか、と言われるのですが、
わたしは解らないことがあれば自分で調べたいし、
理解できないことがあれば自分で考え抜いて答えを出したいし、
誰かに質問して答えを得られる程度の疑問なら、持つ意味すらないと思うので、
じっと視線を落として畳の目を数えて過ごしてしまうま……。

いくら浮気をしないと言っていたって、
過去に二股も三股もかけたという話しを聞いたら容易には信用できないのと、
いくらオウムじゃない、麻原信仰は脱したと言っていたって、
過去にああいう事件を起こした事実を知っていたら容易には信用できないってのは、
似てるっちゃー似てるなぁ、なんて呑気に考えてるわけで。
どっちも、「その時」が来るまではどっちとも言えないわけですから、
浮気が発覚したり、やっぱりオウムだったと発覚したりするまでは、
自分を見失わないように勉強を続ければいいんじゃないかなぁ……。
どうでしょうか……。

でも、ひかりの輪の方はお話してて嫌な感じは全然しないよ……。
それより、ビデオカメラ向けながら「信者の方ですか?お話いいですか?」って、
にじり寄ってくるどこかの記者さんの方が……ごにょ……。
あなたこそ何処のどなたさんなのよ……。

上祐史浩氏にお会いしてきました。<後編>

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ミーハーですか!!! すみません!!!
理系の人の字だわ……。と思いながら書いてくださるの見てました。

説法会が終わってから、奥のお部屋で個別面談の時間くださるんですが、
やっぱり17年前に「いつか会うんだろうな」と思ってた方を目の前にすると、
どうも何から話していいかわからなくなってしまって、始終口ごもった。
話したいことは山ほどあったはずなのに、核心に迫られることが怖くて、
せっかくの機会なのに何度も逃げを打ってしまいました。
でもなかなか終わらせてくれない上祐氏。
逃げを打ってるのがばれてるのかもしれないなあと思いつつ……。
次に待たれてる方もいらっしゃったので、どこかのタイミングで終わることになり、
最後に握手をしていただいて、その時は退出しました。

で……ありがとうございましたーって、帰ろうとしたら、外に出られないの……。
玄関の前が水溜りで、どんどん水が流れ込んできてて……。
どうしようどうしようってやってたら、奥から上祐氏が様子を見に出てきて、
少し止むまで中にいればいいじゃない、と。
更に、「さっきはいまいち話の核心に至ってない気がする」と個人面談再び。
うーん、まあ、あるよね、人生には逃げられないことが……。

この後の面談では、お茶を出していただいてしまったり、
どっちにしろ今の状況では帰れないっていう状況もあり、
少しリラックスしてお話ができました。
このときはとても居心地が良かったです。
だから初めの面談のときは私が緊張しすぎていたんだな……。

しかし、おかげさまで横浜連絡所を出たのが23時近くになってしまい、
川崎では最終電車に飛び乗る形になってしまいましたが(笑)

私にとって精神世界というのはとても身近なものです。
だけど、カルトや悪質なスピなんちゃらのイメージが強い社会で、
こういう話をするためには、それの何倍もの説明や言い訳が要る。
それはものすごくストレスで、苦痛なことなんだけど、
そういう説明や言い訳をしないと耳を傾けてすら貰えない。
だから、そういうストレスのない会話というのが心地よかったのです。
自分がなんとなく感じていたことを、他者の口から聞くっていうのは、
なかなかしんどいことではありますけど、覚悟も決まるってものです……。

「ひかりの輪」とは、という疑問と混乱から得た機会でしたが、
昨夜はとても有意義で楽しい時間をすごすことが出来ました。
お世話になったみなさま、どうもありがとうございましたm(*_ _)m

上祐史浩氏にお会いしてきました。<中編>

駅の改札を出たところでぼんやりしていると、
横浜連絡所長の細川さんにお会いできました。
連絡所までの道々、説法会に参加される方とちらほらお会いして、
けっこうたくさんいらっしゃるのかなーと思ったんですが、
どれくらいいらっしゃったのかな……そんなに多くはなかったです。

横浜連絡所は、普通の民家の中に祭壇がすえてあって、
お香がたかれていて、優しい音色がしていました。
妙な感じは全然しなかったですね。
以前にスピリチュアルヒーラーさんという方のセッションを受けたことがあって、
その方のサロンと(内装の違いを除けば)似たような感じでした。

ただ、玄関まではそうでもないんですが(あ、玄関の前水溜り凄かったです)
ちょっと入ったあたりから空気の濃度が高くて始終ビリビリしてた。
きっと帰る頃には頭痛ひどくなるだろうなーなんて思いつつ……。

霊的な、なんて言うと妙な感じになっちゃうので、
どういえばいいかずっと考えてるんですけど、どうもまだ言葉が見つかりません。
濃度というか、圧というか。
たぶん、人形とずっと向き合ってるっていうのもあると思うんですけど……。
彼らとの対話の中では、空気の色や濃度や圧力にすごく気を使います。
でも人対人でもありますよね。いま相手がイライラしてるな、とか、そういうの。
ああいうのと同じです。
でも相手が人じゃないってだけで、言葉にすると妙な感じになっちゃいますね。
こういうのがカルトとか詐欺まがいのスピリなんちゃらに利用されるとこだと思う。
あたかも超能力みたいな、大宇宙のなんちゃらとか、どうちゃらとか。

私はたまたま創作のためのパートナーが人形なので、
彼らとの「対人関係」の中でそういう感覚を培ってきたわけで、
それが人形以外のものに対しても生じるってのは当たり前なんですがね。
元々そこにあるものを、受け取るか受け取らないかっていうだけなので、
それを受け取ろうとするトレーニングをしたら受け取れるのは当たり前。
それを超能力だのサイキックだの霊感だのと言うのはどうもちがう。
そういうのが受け取れたからといって凄くもないし偉くもない。
何かを成し遂げようとしなければ成し遂げられるわけもない。

話がそれた感じがするけど……。

とにかくその部屋の中の空気は濃さと圧がすごかったです。
それが、ふっと軽くなったのが上祐氏が部屋の中に入ってきたとき。
実は昔のテレビ映像をちょいちょい動画サイトで拾って見てたんですが、
それと今のブログにUPされてる姿がいまいち繋がってこなかったんです。
それがご本人を目の前にしたらカチッと繋がってしまいました。
ああ、確かにあの上祐氏なんだと。
あの頃の彼は見るかげもなく穏やかである、だなんて書けば、
何となくそれっぽい文章になるのかもしれないですが。
戦ったり乗り越えたり背負ったりしているからこそ今の姿があると私は思います。

説法会の内容は、いわゆる教義を説くようなものではなく、
どちらかというと大学の講義のような印象を受けました。
何かを信じなさいとか、救われるためにはとか、そういうことではなく、
合理的に受け入れられる内容だったと思います。

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祭壇に供えてあった御供物のみかんと、教本を頂きました。
教本の内容も少し拝見した限りですが、何かの教えを説いているわけではなく、
ただ素直に宗教や仏教を学んでいくためのものという印象を受けました。
危険な思想は感じませんでした。

長くなったので……前中後編に分けます……。

上祐史浩氏にお会いしてきました。<前編>

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前にどこかのエントリで「オウム真理教関係の本を読んでいる」と書きましたが、
その本と言うのがこれです。購入日を見たら去年の年末だった。

学生時代に本当に読書をしなかったので(コバルト文庫読んでたからな……)
最近「前提知識として読んでおくべき本」ってのをたくさん見つけてしまって、
そういう本の合間にこうした新刊本を読んでいるというのが現状です。
実際は、「読むべき新刊本」なんてほとんど無いので、
読むべきものを読む作業には大して支障はきたしてなくて、
どっちかっていうと、難解な古典の合間の息抜きに利用してる感じです。

そんな中でも、こういう本があるんだな。ある出来事のエピローグみたいな。
何かのきっかけを作ってしまうっていうか、逃げようとしてるのに逃がしてくれない。

オウム真理教の騒動なんて知らない世代もだいぶいるんだろうな。
地下鉄サリン事件の時に私はあの電車に乗ってたんですけど、
手前の駅で降りたので被害者にもならずに、事件を後で知った程度でした。
当時中学3年生だったかな。学校は休みで、部活に行く途中だったのを覚えてる。
で、学校で「何か電車止まってるみたいだけど帰れるかなー」なんて、
話してたのもすごく鮮明に思い出せます。
部室からちょっと出たところに自販機があって、そこはガラス張りで、
体育館が地下にあったんですけど、それが見下ろせて、中庭の人工芝が鮮やかで。
ブリックパックのストローをくわえながら、それをずっと見てた。
その自分を背後から見てる自分を覚えている。その二人の自分を覚えている。
妙な体験だったから、余計にあの事件が気にかかっていた。

「死と生」「宗教」「命」「心」
そういうテーマについて考え始めたのは、記憶にある限り5歳の時からです。
でも明確な言葉として持ち始めたのは、やっぱりこの頃かもしれない。
それから仏教を大学で学ぼうと思ったり、天台山にまで行ってしまったり、
そういう考えを基礎にした創作発表を続けていたりするんだから、
やっぱりどうしたって「オウム真理教」という現象は私にとって重要だったのです。

麻原彰晃を護送する渋滞に巻き込まれて、動かないバスの中でぼんやりしたり、
テレビの中で早口で熱弁して、フリップを投げる上祐氏を眺めながら、
他人事ではないのだと思っていたし、いつか彼と話す機会がある気がしていた。
「彼」というのは誰のことだったかは当時は解らなかったけど、
でも、だからこそ慌てずに自分のやるべきことをやりながら、
何かがそういう方向に導いてくれるんじゃないかなってのんびり構えてました。

実はまだこの本を読破していないうちに、「ひかりの輪」が気になってしまって、
Twitterを見たりネット検索をしたりしてみたんですね。
本を読む限りは上祐氏は麻原信仰からは脱却していると思えるし、
「ひかりの輪」がいわゆるカルト宗教のように活動しているとも感じられない。
でも「ひかりの輪」を邪宗であると批判しているサイトもあるし、
上祐氏に対して「まんまと教祖におさまった」なんて言っている人もいる。
かと思えば、「そんなことなかった」と言ってる人もいて……。
実際じゃあほんとのところはどうなのよ? と、多少混乱してしまって。

ひかりの輪のHPを見たら、ちょうど昨日、横浜連絡所で代表説法会があり、
上祐氏と個人的にお話する時間もとってくださるということだったので、
天候が不安ではありましたが、参加したいですとメールをしたのでした。

長くなったので前後編に分けます。
これ書き終わらないと落ち着いて仕事の記事書きできないので(笑)