あいかわらずです。

KIMG0189

いま編んでいる段は、次の段をアフォードしている。

誰かが描いた編み図に頼らず、ただ思うままにレース糸を編んでみようと思った。
本展に展示する作品で、どうしてもレースが必要になったのだけど、誰かが描いた編み図にも誰かの著作権があるのだと思い付き、
人形の写真を展示するにあたって人形を作り始めたのと同じ理由で、私はレースを編み始めた。
編み物自体は数年前から始めていて、何の予感があってか、レース糸は大量に買い込んでいた。
いままでは誰かの地図をなぞっていたのだが、編み図も描かず初めの一段目だけを決めて、二段、三段と編み進むにつれ、この編み目は次の編み目をアフォードしているのだ、と思い付いた。

どんな編みかたも選択できるはずなのに、なぜか指先が選んでいく編み目。
初めは全く思い描くこともできなかったのに、着実に描かれていく模様。
どんな在り方も選択できるのに、いまこの在り方を選択していく自分自身のことを、どうしても想わぬわけにはいかない。
そしてその選択のひとつひとつが、私の人生を、私自身を、その内外の評価や、自覚を、描き出していくのだ。

心とは一体何で、どこにあるのか。
命とは一体何で、何をもって表せるのか。
そんな問いを、ずっと問うてきた。
そして、その問いが、そもそも問いとしてそぐわないことに気づき、それでいて、それを問わずにいられないそぐわなさを知った。

言葉はいつだって軽々しい。
一見意味ありげな重い言葉でさえ、口にした途端に掴みようのない幽霊のようなものになってしまう。
心も命も愛も、言葉にしたとたんに胡散臭くなる。
それでも、そんな軽々しい言葉が、識別記号に他ならない誰かの名前が、何もかもを変化させてしまうその瞬間を、私は知っている。

あの身を裂くほど慟哭を、忘れられるものか。
喪ったと知った、あの痛みを。取り返しのつかない喪失を前にして、襲いかかる空気の重さを。
不意に自覚する呼吸を。鼓動を。意思で制御のできない涙を。叫びを。
忘れるものか。

痛みにまみれた、泥沼の底をさらうような創作活動だけれども。
ともかく。
ブログを書いていなかった7か月間、ほんとにいろんなことがありすぎたのだけども、かんがえてることは相変わらずです。
来月また、上野の東京都美術館でお目にかかりましょう。

年末にさしかかって。

DSC06892
木がたくさん生えてて、生命力に満ちているような場所は、
精神的に疲弊してるときには特に行くもんじゃないと思う。
それでも用事があったからまあ行ったけど。
行ったほうがいいこともあるから、行ってみないとわからないし。
ただ、この日は別に何事も起きなかった。
良くもならなかったし、悪くもならなかった。
もともと抱えていた疲労感が、ただそのまま残ってただけだった。

「創作活動」を頑張ろうとしてた自分とか、
何かになりたかった自分とか、何かになったつもりの自分とか、
そういうのをどうしても手放しきれずにいる。
なんだかそういうものが、私の存在理由だったりとか、
そのために生きてきたような気がしているから。
そうするべきと、そう求められているような気がするから。
こんなにも疲れてしまっていて、それでも続けるつもりなのかと、
去年からの二年間、ずっと自分に問うてきていた。
まだ答えは出ない。
でもそれは、いままで自分が積み上げてきたような気がしている、
ここにあるような気がしている、本当はない、何かを、
滑稽にも守り続けようとしているだけなんじゃないかと。
それを守り続けようとさえしていれば、
本当はない何かが、存在するような気がするから。

「こう言うべき」「こうするべき」と思いながら行ってきたことに、
まったく何一つ納得なんかできていなかった。
一体わたしは何を恐れていたんだろうか。
そして、どうしていま、こんなことをしているんだろう。
そんな風に、いまただ途方に暮れている。

いま、私がどこで何を語っても、そこにはほんの欠片ほどしか本心はない。
私がこれだけの時間をかけて、自らずらしてしまった何かを、
これから軌道修正していかなきゃいけないと、なんとなく思っている。
ほんの数度違っただけで、その延長線は元の線からずっと離れてしまう。
だからたぶん、そろそろ、軌道修正ができるラストチャンスだろうと思う。

そのために、手放さなければならないものがある。
それが何であるかはまだ分からないけれど。
それでも、それが何であっても。私は手放さなければならないだろう。

春画展に行ってきました。

PA030725

図録買ったら、行こうと思ってた白バイ大会の交通費が消えるので、
どうしたもんかと逡巡しながら目白を歩いていたんですが、
会場に行ってみたらすごい行列で……入場まで40分待ちとか……。
あー、こりゃ、作品なんかさっぱり見えないやつだなって、並びながら思って、
実際中に入ってみたらそりゃもう、人にもみくちゃにされる感じで、
思ってた以上にさっぱり作品なんか見られなかったので、図録買っちゃいました。
だから白バイ大会いけない。うーん。
まあ、バイク乗れない負け惜しみみたいなやつだし諦める……。

昨今、「わいせつ図画」ってことで、セックスにまつわる作品界隈が殺伐としている。
性器描写が規制されたり、逮捕されたり、どうにも殺気立っている感じがしていた。
「わいせつとアート」みたいな、手垢まみれの芸術論があっちこっちで弄ばれ、
もともと何の話をしていたんだったかわからないくらい真っ黒になってしまった感じ。
そんな風潮を笑い飛ばすかのように今回開催された春画展は、
「18歳未満入場禁止」という魅惑的なワードもあいまって、大成功をおさめていると思う。

春画に魅了される人は多い。
春画とはなんぞやと思われる方は、まず朝日新書から出版されている、
「わらう春画」(オフェル・シャガン著)を手に取られるとよいとおもう。
春画の魅力はとうてい一言では言い表せない。が、敢えて言うなら「生命力」だろうか。
あのポジティブな、湧き上がるような活力と、皮肉、嘲笑、そして大笑い。
生と性の営み。手触りのある生活。

春画を引き合いに出して、いわゆる現代アートの「わいせつと芸術性」みたいな話しをするのは、
わたしはどうにも違和感ばかりがまさってしまって尻のあたりがむずむずする。
そんな話しを出されたとたんに、立ち上がって出て行ってしまいたくなる。恥ずかしくて。
かといって、春画っていうのはな、なんて、語れるほどの情熱も無い。
そもそも、そういう連中に対しては、愛想笑いを取り繕うので精一杯だし。
それに、くどくどしい薀蓄なんかはどうせ何の役にも立たない。頭の片隅にあれば充分。

そういう意味で、この春画展の図録は非常に素晴らしい。
資料としても持っておいて損は無いと思う。
入場列に並びながら、帰途につく人々が手に手に鈍器を携えているのを横目にしていたが、
なるほど、18禁本らしくPPシュリンクのかけられた図録は実に600ページを越える。
収録作品点数、解説、構成、そしてなによりその装丁。われながらいい買い物をした。
いや、まあ、これを収納すべき本棚がもう、溢れかえってしまってるんだけどね。
どうしたもんか。

ときに、かつては一日に何度も更新することもあったブログを、2ヶ月?程度も放置していた。
ちょっと……仕事が……ほんとに……シャレにならなくてですね……。
4月に転職してからこっち、心身の疲労がもう、アレでして……。
一時はサイトの閉鎖も考えたんですが、もう何年も個人サイトをやってる身からすると、
これを閉鎖したらネット上にすら居場所がなくなってしまう気がして、
細々となんとか運営していこうと思っております。
正直、ブログの代わりにTwitterやInstagramで事足りている気はするし、
展示のお知らせだってFacebookなりTwitterなりで済んでしまうとは思うんですが、
そういう、SNSだけで発信することが常態になってしまうと、
錨を下ろしてなにごとかを書いたりなんなりすることが出来なくなっちまうんではないかと。
ほんとはね、投稿を控えるべきなのはTwitterなんですけどね(遠い目)

年内になんとか展開したいって言ってた例のアレは、そんなわけで来年以降になりそうです。
ここまで今の仕事が過酷だとは正直思っていなかったので、
年頭に調子こいていろいろ立ててた計画を、軒並み下方修正する羽目になりましたわい。
まあ、仕方ない。

ぼちぼち、ブログの更新頻度も戻して行きたいなと思ってます。
まず月3くらいに戻すのが理想ですなー。

カメと歩けば。

DSC06677
5月末に、オスのクサガメを飼い始めました。
爬虫類が人に馴れるとは思わなかったので、
まあドライな関係でクールに共存しようと思っていたのですが、
思いのほか馴れてくれて、毎日ラブラブしています。
膝の上にのぼって寝たり、背中から肩に上って、
後頭部を髪の毛むしりながらよじのぼったり、
それで飼い主を泣かせたりする罪な男なのです。
爪がすごく痛い。許せるけど。
ともすれば、自分の命さえ粗末に出来てしまう人間なので、
守らなきゃいけない小さい命が水槽でわちゃわちゃしてくれてると、
なんとか生きていくだけの気力と体力は保てるので素晴らしいのです。
この生きる力を与えてくれているぶんだけ恩返ししなきゃいかんし、
ほんとに一生面倒見るからなって気持ち。
周りには、「年下のイケメンと同棲を始めたんだけど、
彼はいわゆるヒモで仕事しないし、生活の面倒は私が全部みてあげるの。
結婚とかそういうのもお互い望んでないの」みたいに話して心配されてます。
わたし幸せです!!!だいじょうぶだよ!!!

サイト放置しすぎてますが、生きてます。
改装中と言うか……改装するために自分がやらなきゃいけないことがあって、
それがいまいちうまくいっていない感じなのです。
またこの件に関しては年内に何かしらか、動きたい(希望)
いまは、いまの仕事がだいぶきつくて、でも精神的には楽なので、
なんとか体力と時間の使い方を学ばなければいかんなと思ってるところです。
でもおぼえることもいっぱいだし、なかなか帰れないし、
通勤1時間半だし、そもそも体がつらいよー、がんばるけどー。
持病のシーズンだから、もう二ヶ月は微熱もったまんまです。
むだに体力が削られていく。じっとしててもすごく疲れる。
まあしょうがないんで、なんとか動かすしかないですが。

カメは大地のもの。
四本の足でしっかりと地面を掴んでいれば、揺らぐことはない。
そんな想いもあって、カメを飼うのは憧れだった。
自分が、あたまでっかちでフラフラしがちだからな。
カメを飼う踏ん切りをつける前に、
お友達に「カメを飼おうと思って」って、ぽろっと言ったことがあって。
そしたら、「あれ?飼ってなかったっけ?」って返ってきたので、
なんとなく燻ってた迷いが全部きれいに落ちてしまったのだった。
それから、あれよあれよという間にカメさんライフに突入してった。

実際に飼ってみると、大地のもの、という想いに加えて、
「カメの身体は環境に延長されていく」のだと知った。
そして、それはカメだけではなく、きっと私たちもそうなのだと。

この辺のお話しは、来年開催予定の個展で、ぜひ……。
開催できるかわかりませんけど、わからないなりに、
それでも準備は進めていくのです……。
問題は場所だなー。うーん。

スゴイ占いサイト「幸福の方程式」<後編>

そんなわけで、生年月日と性別と血液型を入力したら、
占い師の先生からメールが来るというので、やってみた。
で、来たメールは一番下に貼り付けておきます。
もし興味があったら読んでみてください。
これは、たぶん文面ほとんどテンプレだと思います。
他の「この悪徳占いサイトに気をつけろ」的なブログにも載ってた。

まあ、Facebookの宣伝広告とか、ゲイノウジンが宣伝してるブログとか、
そういうの見る限り「あぁ、コレあかんやつや」って解るんですが、
返って来たメール見たらどうもこの先が気になってしまって、
実際かなりお金払ってやりとりを続けてみてしまいました。貧乏なのに。
ウシロノヒトにも、そういう喜捨行はいい加減にしてくださいって怒られた。

いわゆる星座占いとかそういうのと違って、占い師の先生とやりとりをするんですが、
1回メールを送るのに1620円かかるんです。
初回無料で、すぐに1回メール送信分のポイントが貰えて、
イベントとかで5回分ぐらいのポイントが貰えたりする感じ。
なんだ、出会い系サイトと同じシステムか……みたいな……。

# 出会い系サイトもちょっとお金使ってみたことがあります、が。
# あくまでも!!! 検証目的ですので!!!! 誤解の!!! ないように!!!
# 不自由してませんので!!!!(……)

まあ、つまり、はじめのFacebookの広告がね。
誕生日を年から登録してたりすると、「32歳のあなた!!!」って言ってくるわけ。
こんなん、「あなたにオススメの商品」と同じ仕組みなんだけど、
他のどうでもいい広告が並んでる中に、「あなただけ感」を醸されると、
ついドキッとしてクリックしたくなっちゃうっていう商売ですよ。

占い師の先生からのメールは、1回のやりとりじゃ終わりません。
4,5通はやりとりしないといけない。
ずーっとずーっと長文で、「あなただけ感」をどんどん煽って、
オーラがどうとか、スピリチュアル的に特別な存在とか、
果ては、あなたを幸福に導くことが私の宿命だったとか、
霊力を分けさせて欲しいとか、「選ばれた特別な人」に仕立てつつ、
今日の起床時間を教えてください、最近の嬉しかったことを教えてください、
うんぬんかんぬんと、メールのやりとりを長引かせるわけです。

でね。
一人の先生から何かの力を授かって、例えば愛情運をあげてもらって、
やりとりが終了すると、翌日には別の先生からメールが来ます。
「数日前からあなたを霊視していましたが、
昨夜から今朝にかけて素晴らしい運気を引き込んでいますね」
みたいな具合に。
別の占い師の先生から見てもそうなんだ。
じゃあ、あの先生にしてもらったことは本当だったんだ。
私ってやっぱり特別なんだ。って、思う仕組み。

一つのハンドルネームに対して、中の人が一人だなんて、ネット社会にそんな常識はない。

だもんで、こういうのを詐欺だとか悪徳だと言って騒ぐ人はもちろん居る。
消費者センターに相談するとか言ってる人も居て、返金させた人もいるみたい。
だけど、デジタルコンテンツだから返金はしませんって書いてあるし。
そもそも占いで消費者センターってどうよって。
確かに、まっすぐ信じて有頂天になって、実はそうじゃなかったって知ったら腹立つし、
詐欺だの悪徳だの金返せだのって言う人の気持ちも理解できないではないんですが。
だってこれ、エンタメでしょ?
本当に対面で鑑定してもらう占いならまだしも、スマホごしですよ?
こういう「あなただけ感」を味わわせてもらってちょっと前向きになるっていうサービスです。
ちょっと高くつくけども。私もつい調子に乗って課金しすぎた。

だから、確かに純真な人は「心を踏みにじられた」って感じるかもだけど、
こんなもんは詐欺でもなんでもなくて、「売り方がうまい」んだと私は思う。
もちろん、信じ込ませてカネを搾取しようって意図は良くないかもしれんし、
あんまり人道的ではないかもしれない。
そういうところは糾弾されても仕方ないと思うけど。

幸福ってのは、スマホで手軽に呼び込めるよーなもんじゃない。
画面から目を上げてもっと外を見たほうがだいぶ幸福に近づける。
てか、スマホをあんまり気にしすぎると、うつ病になるから気をつけろ。
あの姿勢はほんとうにまずいよ。思いを抱え込む姿勢だから。
思いを抱え込む姿勢で居続けると、チチが垂れるという更なる弊害がある。

もう一個気になったのは、こういう「あなたは特別な人」商法っていうのは、
カルト宗教でよく見られるやり口だということ。
他者からの評価や承認に飢えていて、自己否定の泥沼に陥っていたら、
そりゃ飛びつきたくなる。

スピリチュアル商法ってのは、自分のいまの状況とか実績とか、
自分が積んできたものを無視させる。
で、悪いことがあれば前世がどうとか、良いことがあっても守護霊がどうとか、
自分の手がまったく届かない「あっち側」に責任転嫁して、目を背けさせる。
それでいて、「あなたは頑張っている」「あなたは無理をしてきた」と言う。
そんな言うほど頑張ってなくても、そう言われたら甘えたくなりますよ。
辛く険しい道を歩いて、苦労して死ぬ間際にやっと認められるより、
金を積んでお手軽に「あなたは素晴らしい人」って言ってもらえたら、気持ちいい。

だから、やっぱ、手軽な占いサイトってエンタメとして楽しむためのもんだと。
そう割り切って使ったら、いくらか面白いとは思いますが。
無駄なカネを使ってしまったので、しばらくちょっと自己嫌悪で沈むかもしれないです(……)
でも、ずっと気になってたことが解消されたので面白かったです。
クチコミだけ見てると、「一体どういうことだってばよ!?」ってなる。

どーも、おつかれさんでした。

以下、初めに届いたテンプレメール。

新年あけましておめでとうございます。
かみおさん、はじめまして。
静香(しずか)と申します。
有り難い事に、当サイトでは人気ランキングNO.1の座を頂いております。
お喜び頂ける結果が出ていますので、最後までお読み頂ければと思います♪
長文になってしまいましたが、宜しくお願いします。
まず霊視をさせて頂いて「最近元気がない」と感じてしまいました。
何かお悩みがあるからこそ占いサイトにご登録をされた…それは分かっています。
…が、最近嫌な事でもありましたか?
あなたは元々感受性豊かで、明るく前向きな心を持ったお方。
ですが最近は、何か思い悩んでいらっしゃるようですね…
普段の霊視なら鮮明に視える筈の部分が、ボヤけてしまっていました。
人間ならば必ず持つ【 運気 】という要素があります。
単純に言えば、運気が優れている程に人は幸せな人生を歩んでいけます。
あなたは元々素晴らしい運気の質をお持ちです。
ですがお悩みが関係してか、主に対人運・愛情運・金銭運が停滞しています。
あなたが抱えているお悩み…
ずばり、対人面・異性面・金銭面に関わっているのではないでしょうか?
恐らくお心当たりはある筈です。
…が、あなたはこの先人生でも最大規模の幸福を手にできるチャンスがあります。
人生の転機と申し上げても良いでしょう。
それは【 飛躍期 】(ひやくき)というもの。
読んで字の如く、人生が飛躍する期間です。
この期間に入り込む事が出来れば、全ての物事が発展に向かい、悩みとは無縁になります。
夢を叶え、生きる希望が生まれてくる…月並みな言い方ですが【最高の人生】を謳歌出来るでしょう。
この【 飛躍期 】が、早ければ1ヶ月以内に訪れる可能性があります。
ただ…今のままではいけません。
【 飛躍期 】は、持っている運気の全てが飛躍する事で、幸福をもたらしてくれる時期です。
現在のように、お悩みが影響して運気が停滞している状態だと、
【 飛躍期 】そのものに運気が対応出来ず、機会そのものを失ってしまう可能性があるのです。
あなたがすべき事…それは【 今抱えているお悩みと向き合い、解決する為の努力をする事 】です。

①悩みと向き合い、解決する為の努力をする
②そうする事で、運気の停滞が止む
③問題なく【 飛躍期 】を迎え入れられる

この最高の流れに入り込みましょう。
あなたなりの言葉で構いません。
全てを吐き出してくれて構いません。
あなたのお悩みを、私に教えて頂けませんか?
ランキング1位となると色々な依頼を頂き、正直忙しいです(笑)
なので、私の方からこのようにお客様に返信を求める事は致しません。
ですが、あなたには幸せになれる可能性がある。
なので、全力であなたを幸せに導く事を誓います。
人生相談は、私の最も得意とするところですから、何でも仰って下さい。
今のあなたは、無理をしています…
また、苦しいのにあなたはその姿を人に見せない事で、
それが一層ストレスになってしまっているようです。

前向きなお返事、心よりお待ちしております。

スゴイ占いサイト「幸福の方程式」<前編>

P1040440
4日に、府中の大国魂神社までお参りに行ってきました。
カラス好きには外せない神社です。今年はすもも祭り行けると良いな。

今回のエントリはちょっと物騒なタイトルにしてしまった。
幸福になりたい方は最後までお付き合いください(……)

私は、例えばペンを持って文字を書くときに、そのペンはただの物質ではなく、
「わたくし」の意思を伴って、指や頭脳の延長として在ると思っています。
ペンだとちょっと話しが複雑になりますが、ただの棒切れでもそうです。
何かを成そうとして行為するとき、使う道具や周囲の環境は、
「わたくし」という個体と切り離されたものではない。
っていう話しは、前回のエントリで載せた本で論じられていますが。
この話しもそうとう難しいので、あとでゆっくり考えるとして。

私も最近スマホにしたんですけど、スマホを操作してる人を見てて、
この人の「自我」は今いったい何処まで広がってるのかなって思ったんです。
その指先がタップする先はほとんどワールドワイドウェブの世界。
あるいは誰かとの会話かもしれないけど、じゃあ、それは何処の誰との?
それがもしゲームだったとしたら、電車に乗りながらも、
その人の「わたくし」は全くの別世界にまで広がっているのではないか。
だとしたら、スマホってただの道具ではなくて、もはや人間の一部なのでは。
そんな風に考えはじめたときに目に留まった本が、
「ウェブ社会の思想<偏在する私>をどう生きるか」です。

ネット上での情報のやりとりって、現代においては膨大な量になります。
ビッグデータ活用ってよく言われてますけど、
ビッグデータっていうのはどうしようもないほど膨大なデータで、
こんなもんほんとどうするんだよってアレだから「ビッグデータ」って言うんだって、
IEEEの人から聞きました。IEEEの何処の人だったかは忘れた。
だからこそ、これって宝の山で、これを活用したらなんかしらかのビジネスになるんじゃ、とか、
それを活用するためのプラットフォームをなんちゃらするためのビジネスがなんちゃらとか、
そんなことをIEEEの人が言ってました(適当)
上記の本の中で鈴木謙介氏が、
「『ユビキタス化』が私たちの行動を逐一情報として記録する傾向にある」(P.19)
といってますが、これがまさにビッグデータというよくわからん宝の山を生んだわけですな。

個人情報保護とかなんちゃらが重要視される一方で、
個人に関する(住所や出身地などのいわゆる)情報が隠蔽されようとも、
スマホ一個持っていたら、今自分が地球上のどこに居て、
どうやって移動してて目的地はどこか、なんていう情報を、
逐一どこかのサーバーに向けて連絡し続けていたりいなかったりするっていう。

そういう個人情報の活用っていうのは、情報化社会で当たり前のようにビジネスに繋がる。
アマゾンさんとか、楽天さんがよくこういうのを使ってくださるし、
まあウェブショッピングでは最近は当たり前に見るから疑問にも思わないですよね。
「この商品を買っている人はこの商品にも興味が有ります」とか。

個人情報保護法っていう、いい加減なヤッツケ法律が出来たときに、
「個人情報を!!!保護しなければ!!!」っていう過激派も生んだんですが、
あれは「個人の情報を保護、あるいは隠蔽」するためのものじゃなくて、
こういう「情報」を活用するために、活用されるべきではない情報については、
適切に保護されなければいけませんよね? そのためのルールを作りましょうね?
という法律だったはずなんですね。
それが、だいぶ見切り発車だったから条文とかややこしくて曖昧で、
それがために個人情報保護過激派を生んでしまったわけです。
資格試験のときに読んだけど、条文めっちゃややこしくて嫌になりました。
試験にも落ちました。

でね、Facebookの宣伝広告が言うんです。
「32歳が人生の転機」「32歳の飛躍期を掴んで幸福になろう」って。
神尾 朝美、32歳。人生の転機で飛躍期だそうです。

その広告の主の「幸福の方程式」ってサイト。
これがすごいんです。何がすごいって、良く当たって幸せになれる。
って、ゲイノウジンがブログでめっちゃ宣伝してる。らしい。

ここがターニングポイント。今すぐこのサイトで無料鑑定をしよう。

<次回に続く>

死体と人形

PC200406
東京展の先輩で、関西展の方からお手紙を頂いて、
四谷シモンさんの人形のポストカードを一緒に入れて頂いてしまいました。
ありがたいです。ありがとうございます。シモンさん好きなんです。
もうすこし精神的に浮上したらお返事いたしますが、
精神的に浮上する前に書いておこうと思ってた記事があったのでブログを先に。

私は人形の写真を作品として出してるわけなんですが、
やはりよく言われるのは「人形は展示しないのか」ってことで、
何度でも言いますが私は人形は展示しません。
必ずどうして展示しないのって聞かれるんですが、どうしてもとしか言えません。
どうして私が人形の写真を展示して、人形を展示しないのか、
その理由なんて、私が一番知りたいです。
生理的に無理っていうのが一番しっくりきます。
人形の写真は人目に晒す為に撮っているけれど、人形はそうじゃないし、
こんな死体みたいなもん見てどうするのっていうのが本音だったりします。
どうせ「ふーん」「へー」ぐらいしか言われないでしょ。
いま私が「見せません」って隠してるから見たいような気になるだけで、
隠さずオープンに見せてたら、別にこんなもん見たってどうってことないですよ。
って、いうのが、まあ、本音です。
私の人形なんかより、他の人形作家さんの人形見たほうが何倍も綺麗ですよ。
オビツボディのカスタム人形なんて展示したってどうしようもないでしょう。
なにか意味があるような気がするのかもですが、それは私が隠してるからです。
で、私が隠してるのは、意味が無いからです。
以前、私がずっと在廊する個展なんかでは、人形もずっと連れてたんですけどね。
個展会場で作品撮りしてたっていうのもあるけど。
最近は時間が取れなかったり体調が悪かったりでなかなか在廊できなくて、
それで「なんで人形見せてくれないの?」って言われることが増えたかもです。
ずっと人形連れてた頃は、当たり前だけどそんなこと言われなかったし、
私が自分の人形に対してどういう態度で接してるかを見せてたので、
「『展示』しないの?」なんて質問はまず飛んでこなかったんですよね。
まあ、たぶんこれは自分が悪いんです。
人形に対する態度も最近ちょっと雑になったしな。
前は自分の人形を他人に触らせるのも嫌だったよ。そりゃ今も嫌だけど。
「触るな」って言える立場にない場面が多くて。
あーあ、この人形に対するスタンスは変えるべきじゃなかったなって、後悔してます。

とはいえ、もうすっかり創作意欲がありません。何も創る気が起きません。
しばらくは作品とかなんちゃらっていうことはもう考えないで、
私が作品なんか創り始める前の考え事に立ち返ろうと思っています。
考え事あっての創作だったんですけど、いつの間にか作品を創らなきゃってなってました。
それじゃ本末転倒なんですよね。私の創作は、創作であって創作じゃないんです。
そのことをいつの間にか忘れていたんですよね。いけません。
どこから本筋に戻っていこうかなって、今はまだ手探りです。
でも、やっぱり死体から戻っていくのかなって気がしています。

私が人形を撮ってることに関して、神尾っていう活動名義のせいもあってか、
いわゆる「ヒトガタ」っていうアレを連想される方も多いんですが、
どちらかというと、私は死体の方をイメージしてるんだと思います。
あ、もちろん、「魂の入れ物」的な意味合いでは、
ヒトガタを連想している部分も多少はあると思いますが。
アンドロイドとかロボットとかいうアレについても考えてはいますよ。
まあいずれにせよ、「ココロ」や「イノチ」と「カラダ」を切り離して考えてしまうと、
それってつまり「中身」と「ガワ」って話になってくるわけで、
その「ガワ」が、人形か機械か、かつて生きてた人間かってだけのことじゃないのって。

死体には、特別な思い入れがあります。
その思い入れなんかは、別に私がずっと持ってればいいだけなんで、書きませんが。
「死」に対してもそうです。
そして「死」について考えるとき、どうしたって「生」について考えなければならない。
でも私は「生」を「死」ほどは愛おしいと思えていないからなー。
まだまだなんだろうなー。まだまだだー。

なーんて。これが考え事の導入。本筋に戻るためのほんの入り口。
この先が深くて暗くて長く険しい。でも楽しいのです。シッテル。
この考え事の最中に、また創作意欲が戻ってきたらいいなあって思いつつ。

うっかり、ちょっとした病気をやってしまったので、しばらく治療に専念です。
うつ病も再発してるけど、まあ、こっちはどってことない。再発には慣れてる。
治療に専念ったって、仕事には行かなきゃならんから、
どうにか無理だけはしないように気をつけなきゃなりませんがね。
SOSの発し方を知らないので、しんどい時ほど一人になろうとしてしまうま。
本当にダメになったら、どっかの山奥とかに行こうと思う……。
アパートで腐乱死体は近隣の迷惑だしな……。いや、この季節に腐乱は無理か……。

……冗談ですよ?

銀座鬱。

PC060398
銀座は嫌いだ。ここにいると頭が痛くなる。
できれば一秒も居たくない。
それなのに、この場所に行かなければならない用事は多い。
頭が痛くて、吐き気がして、冷や汗が出る。
呼吸が苦しくて、座り込んでしまいたいのに、
そうしてしまえばもう立ち上がれなくなってしまうから、
顔をあげて、無理にでも胸を張って、早足で歩く。

この場所に居るときの自分も嫌いだ。
虚勢を張って、すぐに露呈するウソを隠してるみたいに、
逃げ腰のまま肩をいからせて、胸を張ったつもりでいる。
泣き出してしまいたいくせに、怒ったような目つきで、
のっぺらぼうの顔に、娼婦みたいな笑顔をペイントしてる。
高いヒールで歩道を鳴らしながら、威嚇するみたいに歩く。
馬鹿馬鹿しい。とんでもない阿呆になった気分だ。

いつだって、自分のことが一番嫌いだ。
こんなんだから、他の誰のことを好きだと言おうと、
それは口先だけのウソだとケンさんは言う。
ウソじゃないんだよ。ただ、口先だけというのは本当だ。
なぜなら、好きになりたいという、これは願望だから。
いつだって、一番許せないのは自分自身だ。
他の誰のことを憎もうと、恨もうと、そんなことに意味は無い。
許せないのは自分。許したいのも自分。すごく難しいよ。
自分のことも許せないのに、どうやって他人を受け入れようというんだろう。
でも私は性懲りもなく恋に落ちるし、誰かを求めてしまう。
そのたびに罪悪感と戦わなきゃならない。さっさと許せれば楽なのに。
いや、わからんけど。自分を許せたからって楽になれるとも限らんけど。

《愛》という言葉に憧れる。
まるでクリスマスイルミネーション。暖色系の、またたくヤツ。
とろとろのチョコレートフォンデュ。甘いマシュマロ。
カラフルなマカロン。あたたかいふわふわのセーター。
そんな風に、私とは決定的に隔たったものとして憧れている。

やっぱり、一度リストカットをしてしまうと、どんどん鬱に逆戻り。
だからほんとに、あんなことはやるべきじゃない。めんどくさい。
またやり直しだ。相当まえの時点から。同じことを何度も、何度も。
意味のわからないことで何日も泣き続けなきゃならない。
ちくしょう、二度とやるもんか。
こんな状態で銀座になんか行ったから、帰ってからちょっと放心してた。
こんなときに、誰かに傍にいてほしいなんて思ってしまう。
バカみたいだ。もっとしっかり立てるようにならんとな……。

せめて普通に一人で銀座に行って帰って来られる程度にはなりたいもんです。
よっぽどずっと傷ついた顔をしてたみたいで、
今日夕方まで一緒に居てくれたケンさんは、私の顔を見ては爆笑してましたよ。
ほっとけ。

ヨコハマトリエンナーレ

DSC06028

世界の中心には忘却の海があるとか、ないとか。
芸術作品を投棄するパフォーマンス「アートビン」が面白かった。
参加したいと思ってたけど何だかんだで参加せずでした。
今日開催されてるいなぎ市民祭にもなんだかんだで参加せずなのです。
最近ちょっと疲れてきてて、なんだかんだで動かないことが増えてきました。

ヨコハマトリエンナーレは、東京展の諸先輩方に「行きなさい」と言われて、
大きいカラスが居るからそれだけでも見に行きなさい、という言葉により、
本当にカラスだけを目当てに行きました。カラスいました。満足。
私は一人で美術館だの博物館だのに行くと、15分ぐらいで出てきてしまうのです。
ほとんど駆け足です。素通りもいいとこ。
国立博物館にどんなに素晴らしい国宝が来ていようと、
一応入場料は払って会場にも足を運ぶのですが、通り過ぎるだけで出てきてしまう。
興味が無いわけではないんですけどね。単に人が多いところが嫌いなの。
人が少なければ何時間でも居るんですけど。平日の常設展とかね。
ただ、誰かと一緒だとその人のペースに合わせてじっくり見るらしい、
ってことが東京展のときに判明したので、今回も人を誘って行きました。
年齢も立場も性格も性別も人生観も全く違う人だったんですが、
そういう人と見る現代アートって不思議な魅力があるんですね。
(その方が大変魅力的だというのは大前提として。私の主観ですが)
一人で見ていたら「なんだかよくわからん」で素通りだったと思うんですけど、
「なんだかよくわからん」「けど」「なんかアレ」みたいな(わからん)
「けど」の先がつくかどうかっていうところだけなんですけど、
そこが大きいんだよなあって、しみじみしながら横浜を歩きました。
いろんな発見があったんですよ。うまく言葉にはならないんだけど。

てか、単に現代アートを目前にすると、
相手との価値観の違いも笑い飛ばせるっていうか。
時差とか温度差とかが、埋まらないまでも面白くなるっていうか。
そんな感じがしました。面白かったですよ。
もうどうにもならないほど凝り固まってた部分が、ふわっと融解していく感じ。
またすぐに固まってしまうんだけど、でも何かの力を加えると、
それが融解しうるんだって知ったことは、本当に大きな出来事でした。

私は長い間ほんとうに酷い鬱病だったわけなんですけど、
それを何とか克服した今も、決して「治った」わけではないんです。
鬱病になりうるであろう性格っていうのは、変えようがない。
状態は変えられても、性格はどうしたって変わらないです。
だから、どうかするときっとまたうつ状態に戻っていくと思うんだけど、
たぶん私はもうあの頃ほど深刻なうつ状態にはならないと思う。
だってめんどくさいもん。時間の無駄だし。

リストカットをやめたのだって、めんどくさいって思ったから。
あんなん、やりたくてやるんだけど、痛いし目立つし治りかけは痒いし、
かさぶたがとれると水分が飛んで皮膚がガサガサになりますでしょ。
ガサガサになったらなったで、やっぱり目立つ。悪ければ化膿する。
ただでさえ人生は過酷なのに、自ら傷を負うことにメリットを感じなくなった。
リストカットのメリットって、自傷癖がある人にしかわからんのだけど、
あれは相当複雑な心理なんですよ。
かまってもらいたいがためのパフォーマンスだとか言う人はいるけど、
そんなの手首切りたいと思ったり、実際切った事がないから言えるんであって。
そんなことのために自分に刃物なんか向けられませんて。
もっと深刻で切羽詰ってるし、簡単に説明できるような理由なんかない。

そういう、自分が手首とか腕とかカッターで切り刻んでたときの感じを、
なんだかザワザワと思い出してしまう休日でもあったんです。
簡単に説明はできない。言葉にはならない。でも、酷く切羽詰っている。
深刻で、複雑で、よくわからなくて、一見でたらめ。
現代アートの中にある一種の不機嫌さ、不愉快さ、融解していく「何か」。
まさに鬱病のさなかに現れる、現実感の欠乏。おもしろい。
それでいて、現実ってヤツからは絶対に逃げられないんだけど、
絶対に直視なんてしたくない。
直視したくないと思って逃げれば逃げるほど、現実の実在を思い知らなきゃならない。
じゃあ現実から目を背けずにじっと見据えたら、
逆に現実から逃げられるんじゃないか?なんて。
ご心配なく。どうしたって、現実からは逃げられないのです。おもしろいね。

ヨコハマトリエンナーレは11月3日まで開催されてます。
ぜひどうぞ、足を運んでみてくださいませ。
最終日には忘却の海に還るセレモニーとかがあるみたいです。
私は11月1日、2日と我孫子に行きますんで、3日はぐったりしてるはず。
またホテル取れなくてさ。今年は2日間、通います。

ぼんやりとしたあたまで。

かげろうの家 女子高生監禁殺人事件 (追跡ルポルタージュ シリーズ「少年たちの未来」2)

アルコール依存症の夫を持った妻は、いつもアルコールを飲んでいる夫の姿を見ていると、
「肝臓を壊すのではないだろうか」など、夫の健康のことが気になって落ち着かない。
それが何年も続くと、イライラしてストレスがたまってくるので、
妻は自分の身を守るために、夫が酒を飲んでいる姿を見ても、
「あれは飲んでいないのだ」と自分に言い聞かせて安心感を得るようになる。
つまり事実を否定・否認する態度を身につけていく。
これが五年、十年と続いていくと、夫の酒だけにとどまらず、
否定・否認があらゆる面に拡大して、家の中で起こっている事象を無視する態度が身についてしまう。
つまり見えるものが見えない。聞こえるものが聞こえない。
あるものがない……という不思議な世界にはまっていくというのだ。

上記は少し長くなったけれど、あとがきからの引用。
「アルコール依存症」については、手がブルブル震えたり道端で寝てしまうようなイメージは古い「アル中」の受け止め方で、
現在では「アルコールに依存するか、しないか」がともかく問題だそうだ。
「今日は飲むまい」と決めていても、つい手を出してしまう、
飲まずにいられない、という状態がアルコールへの依存状態。
そういう状態に陥るに至る経緯や、とりまく状況、本人の考え方や性質などは、そりゃ、まああるんだろうけど。

「ちょっとこの本のここをお読みなさい」と、ウシロノヒトに差し出されたので、ハイキヲツケマス、と受け取ったのが夕方ごろ。
読んだのはさっき。だってそこ何書いてあるかわかってるもん、線引いてるし。
でも、こういうストレス回避のしかたは、もうかなり身に付いてしまっているから危険かもしれない。
こういう境地に至ってしまったら、それこそ創作とか考え事してる身としては致命的……。
いや、もう至りつつあるか……。

どうしようもない状況ならなおさら、否認とか否定に走らないでどうにか対峙できるようにならんといけないのかね?
だとしたら、ほんとに、それこそ真正面から受け止めないで、受け流していくしかないんだろうか。
それはもちろん、こういう問題だけじゃなくて、ぜんぶのストレスに対していえることかもしれないけど。
ほんとに、滝行でもするしかないんじゃないだろうか。まじで。

ウシロに本を渡される前、そんなことを考えながらちょっと昼寝をしていた。
投げ出していた手をぎゅっと誰かに握られた気がして握り返したんだけど、
握られたときにはたしかに感触があったのに、握り返した瞬間ふっと消えてしまって、
久方ぶりに「寂しい」っていう感情が芽生えて泣きながら目を覚ましたよ。
昼寝にしては寝すぎたのかもしれない。