なんだか難しい話。
↑ふと思い立って画像フォルダを漁ったら、初期の奏さんが出てきた。この子は初期の頃からモデル気質だったんだな、おかげで撮りやすいです。
先日「特攻野郎Aチーム」を映画館で観た帰り、コンビニで「第9地区」のBD&DVDが売っていたので思わず買ってきた。
それで久しぶりにあの映画を観たのだけど、いやはや何度観てもあの映画は酷い。酷く良い作品だ。
私が扱っている作品のテーマも、あの映画と同じほど重くて複雑だし、あの映画で扱っていたテーマがそのまま私の作品のテーマになることも、この先あり得るだろうから、余程制作者として観てしまう部分も多々あるのだけど。
作品のテーマや、制作者・作家側の「想い」なんていうのは、そのまま伝わり、理解されることはまずないと思っている。
それはしごく当たり前のことで、例えばそれはこの前私が主催した合同展「変フェス」によって証明したことでもあるのだけど、作品を作っている人間もそれを見ている人間も、全員が個体であるからだ。
だから一つの世界を同じような外的条件下で見たところで、個体によって全く違う世界に見える。そうでない方が不自然なのだ。もしそうした結果があったとしたら、それは誰かが嘘をついているのだと思う。
私は長く、「世界があらゆる色を内包している」と言い続けていたけれど、多分そうではないのだ。
それのどれを拾い上げるかによって違う色に見える、のではなくて、初めから違う個体がそれぞれに違う色を観ることは当然のことなのだ。
この辺はまた話し始めると長く複雑になるので割愛する(……だから時として誤解を生む。ごめんなさい)
話が逸れたけれど、作家側の「想い」や「意図」は大抵の場合正確には伝わらない。
ただし、それに共感したり、その作品に込めたざっくりとしたテーマを理解することはできる。
しかしそうした人々はごくまれだ。展示会でそうした人に出会えたこともあるが、未だほんの数人である。
そしてそうしたテーマを理解できずに、なんとなく通り過ぎていく人たちもいる。
多くの場合、私はそうした人たちを無視してきた。
しかし、この映画を観て思ったことは、そうではないのだ、ということだった。
テーマが理解出来ない人々に対しても、面白い娯楽作品であるべきなのだ。
伝えても伝わらない人々を無視するべきではない。
展示をやっているとつい忘れがちになってしまうことだ。
自分の作品に愛着が湧きすぎて、要らない自尊心が鎌首をもたげてしまう。
伝えなければ、なぜ伝わらないのか、そんなことにばかり意識がいってしまうのだ。
それでは創作をやっている本当の意味を見失う。
私が本当に見失いたくないもの、追い求めているのは「本質」だ。それを忘れてしまう。
展示は、たいてい「想像力の最も低い人」を基準にして作っている。
そうした上で自分のやりたいことをやり、表現したいことを表現する。そのスタイルはそれでいいと思っている。
今回は、そこから更に作品世界の表現方法を広げる手法を検討するための良い機会となったと思う。
いやしかし、あの映画はほんとうに良かった。まだ見ていない人は是非見てください。













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