ブルーライト

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仕事で文房具の在庫を管理しないといけないのだが、
個人的な趣味でMS-Accessを使ってデータベースを作っている。
はじめは単純だったのに、手を入れているうちに複雑になってしまう。
作っている間にいろいろ思い付いてしまって、
アレコレ処理を組んでいるうちに、休み明けには何もかも忘れている有り様だ。

MS-Accessというのは妙なアプリケーションだ。
私は彼の持つ膨大なバグも、バージョンアップのたびに変わる仕様も、何もかもを愛している。
だからこそ、複数人に渡る業務でこのソフトを使ってはいけないと言っているのだ。
誰も彼もが、このダメを愛せるわけがないのだから。

主題から離れすぎた。

そんなわけで、VBなんかを書いているとずっとエディタを睨み付けている状態になる。
目薬のソムリエみたいになった時期もあったが、
結局、使い切りタイプの人工涙液に落ち着いた。
だが、目薬だけではどうにもケアしきれない。

そこで、巷で流行っているPC用メガネというのも導入してみた。
が、いかんせん茶色い。
職場では良くない呼ばれかたをするようになった。
ほっといてよ。もう。
コンタクトをつけることもあるし、そもそも近眼でモニタは見えるので度なし。
度入りも買ったけどまだ出来てこない。
まるでメガネ天国だ。

ブルーライトに関して様々に検証がされているらしい。
ナルホドネーとは思うものの、これだけLEDにまみれた世の中でそりゃないぜ、という感じだ。
実際、茶色いメガネを導入した後は眼精疲労が軽減された感じがする。
全部「感じ」だから実際どうかってところはよくわからない感じ。
専門家に譲る。

色眼鏡のかかったものの見方ってものがある。
付加された「色」を退けるためには、何も色眼鏡を外すだけが手段ではない。
それを相殺できる色眼鏡を上からかければいいのだ。
何者かによって全体にばらまかれた「色」があり、
その色で全体が染まっているなら色眼鏡をかけるより他に手だてはない。
しかし、どれが何色であるべきか、という判断は「誰にとって」という考えに基づく。
それが自分にとって何色であるべきかという基準は、
周囲の社会の在り方や、その社会との関わりかたを反映する。
だから例え誤った「色」で世界中が染まろうとも、そのこと自体は大した問題ではない。
それよりも問題なのは、見えている「色」に一切疑問を抱かないことだ。

主題なんてあってないようなものだ。

アイス。

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聞いてくれよ!
原宿DFGカフェの板チョコバナナワッフルにはバニラアイスがついてるんだ!
どんなに寒かろうと必ずついてるんだよ!(何。

こないだの撤収のときの夕食として食べたんだけど、
アイスのことをさっぱり失念しとりまして。
運ばれてきたこいつを見て思わず硬直しましたが、
修行僧の気分で完食しました。南無。

公募展に出すのをやめようと決めてからも、
いや、やっぱりあっちは出そうかな……こっちはやめるにしても……と、
しばらくの間、往生際悪く右往左往してました。
まだちょっと頭の片隅で迷ってる部分はあるんですが、いい加減にしないと。
そんなことよりも、いろいろ物語やら風景やらが降ってきてるので、
それをどうにか捕獲してカタチにしていく作業にシフトしないといかんです。

何かに舞い上がって地に足がつかなくなってるときは、
いつも何とか軟着陸をしたいと思ってはいるんだけど、今回も不時着です。
ここに辿り着くまでにイバラの道を通ってしまったのでいくらか血は流したけど、
まったく収穫がなかったわけでもないから、まあよしとするべきかどうか……。

口をつぐむ。

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「読みにくい本から読んでるから溜まるんじゃないの? 読みやすいのから片付けていけばいいのに」
という指摘のもとに、どうでもよさげな本から片付けている。
何で買ったのかわからん悪書も中にはあるので、そういうのはそのうちリサイクルに出す。
悪口書き込んじゃうから古本屋には売れないし。
筆者に対して疑念があって買ってみた新書は、なかなか読むモチベーションが上がらない。
根本的な興味は別の場所にあるからな……。
でも読まないと考え事のシナプスが繋がらないからなおさらイヤになっちゃうよ。
読み始めたらざかざか読めちゃうんだけども。

何だか今月は異様に疲れててどーも。
「そうじゃないでしょうが」ってことが多種多様に周りで起こってて、
それにいちいちイライラしてるからいかんのだ。
うまいこと受け流していきたいんだけども。
なかなかうまいこといかないもんで。
全部に反論してたらキリがないからって、
万事口をつぐむ戦法が負担になってるんだが、
かといって受け流せてもいないので病むばかり。

ヤレヤレ。

いったん立ち止まる。

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奥野ビルで撮った真魚。あの場所も不思議な場所だ。
掘り下げたい気持ちはあるが、近寄りたくない気持ちも大きい。

去年立てた計画によると、今月から5月にかけて公募展の準備で慌しいはずだった。
それが終わったら秋の東京展の準備に取り掛かるはずだった。
そして、私自身が私の作品から最も遠い存在になっていこうとしていることに、
昨夜になってようやく気付き、愕然とした。馬鹿馬鹿しい労力だ。
とりあえず、東京展という場所に入ることを許してもらってるのだから、
他に大きな場所を求める必要は、今のところない。
この上、あっちこっちに右往左往していたのでは、東京展に出品した意味もなくなってしまう。
自分の間違えを受け入れることはいつだって難しい。
自分が最も見て見ぬフリをしようとしているものを目の前に突きつける。
でも逃げるわけにはいかない。

公募展に出すのをやめよう、と思ったら、埋まっていた心に少し余裕が出来た。
そもそも公募展に出そうと思っていたのは、この余裕を埋めるためなのだから当然だ。
考える余裕はない方が都合が良かった。考えたくもないテーマが山ほどある。

登山を始める前に、いったん立ち止まって休息を取ることは恥ではない。
その休息を怠って登山の途中で遭難し、誰かに迷惑をかけるのは恥だ。
自力で自分の寝床に戻ることができないなら、
半病人が行動など起こすべきではない、という自分の信条を振り返る。
山はまだ吹雪いている。

自分の足で立ちなさいよ。

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越えられない壁がある。
挑むよりほかに道はない。
確保してきたはずの退路は、どうして肝心なときには消えてしまうのだろうか。
この選択を誤りたくない、と思っているが、それは自分で自分の悩みを増やしているだけのような気がする。
悩みがある間は、肝心なことを考えなくて済むから。
下らない悩みほど増やすのは簡単だ。
派手なモノに挑みかかる振りでもしておけば、本当の課題から目をそらし続けることができる。

公募展しかり、コンテストしかり。
他人のせいにして自分の非を誤魔化すには最適な場所だ。

何だか馬鹿馬鹿しくなってきてしまった。

「未発表作品」

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公募展に応募しようとしたときに一番ネックになるのが「未発表作品」という縛りだ。
当たり前のことだけど、なかなか厳しい。
公募展に応募することなんか考えていなかったから、
ほとんど個展で出してしまったし、サイトにも載せてしまった。
残っているのは展示のときにペケをつけて避けたボツ。
あとは、公募展ではなく個展で飾りたいヤツ。

そんなこんなで画像フォルダをひっくり返しながら唸っていたら、
「そのエネルギーを次の個展に向けるって選択肢はないの?」
と、ウシロ。
まあ確かに、写真の公募展に出してもどうしようもないってことは、解ってるんですがね。
確かにそうなんですがね。

謎ボールペン。

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ホストみたいな男の子が利用するらしいお店で、こういうのを買った。
「お兄系」とかいうファッションらしい。なんだそれ、かわいい。
ショップや商品のレビューとして書き込まれているコメントもいちいち可愛い。
こんな生き物がどこかに生息しているんだと思うと胸が熱くなる。

ともあれ、これはアームサポーターとかアームスリーブとかいうやつで、
半袖の下につけて、重ね着風なアレを楽しむというものだそうだ。
刺青風のタトゥーストッキングみたいなのと迷ったけど、
締め付けがあると血行が悪くなってイヤなのでこっちにした。

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問題は、この、おまけで入ってたボールペンだ。
お店の名前が入っているからおまけなんだと思うけど、
普通おまけで入れてくれる名入れボールペンってのは、大体100円クラス。
200円クラスの名入れボールペンが入っていたらそれだけで飛び上がる。
文房具やOAサプライのお店がよく名入れボールペンおまけしてくれるけど、
これは明らかに1000円クラス以上……なのでは……。
……そうでもないのか……?

謎だ。

2013年初展示終了

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銀座の懇親会を途中抜けさせていただいて、原宿に滑り込み撤収。
こんなに遅くなったのはいつぶりだろうか。
帰ってから少し仕事をしなければならないので、引き上げた作品だの何だのは来週いっぱいかけて片付けることにする。

奥野ビルで、3年ぶりに真魚を撮った。
彼は人形を被写体にした作品としては初の個展でモデルをつとめてくれた。
今の私の創作発表の礎であると言える。
久しぶりのファインダー越しの対話。
真魚はあくまでもモデルに徹する。
感情をあからさまにしない。
彼の心を開くだけの力は、私にはまだない。

真魚は私が初めてオビツ素体で作った人形で、次に作った真白の「真」は真魚からとった。
彼は真白ほどは私に心を開かない。
真白だってすべて開いているわけではない。

その原因が私のキャパシティ不足なら、私が努力さえすれば作品の可能性は無限に広がる。
もしも、陸前高田市で猫目のぎんが私に見せた感情が、その片鱗だったとしたら、と私は考えた。
「その片鱗にすぎないのだとしたら」と。

しかし、人形との対話は命がけだ。
シャッターを一度押すごとに少しずつ命を削る。
時間はいくらあっても足りないのに、時間を捧げるべき創作のために時間を失う。
生命体ではない彼らにとっては、興味もそそられない課題だろう。
彼らと私では、「時間」の概念が全く違うのだ。
私はいつか死ぬし、きっと長生きはしない。
それはどうしようもないことだ。
だからこそ、私は彼らに問い掛ける。
そして彼らは答えたり答えなかったりする。
そのやり取りの果てに創作があり、創作の果てに展示がある。
展示会のたびに、私は彼らとの対話を振り返り、次の問いを探す。
その全てが、私の死へと繋がっていくのだと、繋がっていってほしいと、そう願いながら。
この対話の在り方こそ、創作の手段が写真でなければならない理由だ。
彼らと共に時間を費やすには、私はあまりに短命すぎる。

彼らの呼吸は、私よりもはるかに深く長い。
私の一生など、彼らがまばたきをするほどの時間にも満たない。
気は急くが、急いたところでどうしようもない。

強風ふきすさぶ南武線登戸駅ホームで、A1サイズのアルタートバッグを抱えて電車を待つ私に、
ビル・エヴァンスが優しく語りかけていた。

ティンカー テイラー ソルジャー スパイ

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原著が届いた。

開けてビックリ。
いつだったか書店で手にとってパラパラしたものの、結局書棚に戻して買わなかった本だった。
そんな、「何かの因果」に最近よくつきまとわれている。

少なくとも今週の私の疲労感は、私自身の史上まれにみるレベルだと思う。
異常だとすら思う。
しかし、私が自分で「暗黒時代」と呼ぶ時期や、ここ数年の幾つかの時期に比べたら、その異常さにいまいち自信が持てない。
いくつかの異常さも、かつての暗黒時代や黒い時期に比べたら、まったく正常に思えてしまう。
それだけあの時期が本当に異常だったのだけど。
こうやって事態はどんどん深刻になっていく気がしている。

死にたいと思わないだけでは、生きる意欲があるとは言い切れないし、
生きる意欲があるだけでは、正常とは言えないのかもしれない。

「裏切りのサーカス」つづき

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「裏切りのサーカス」と似た居心地の良さを最後に感じた映画は何だったか。
「バッド・エデュケーション」をすぐに思い出したが、それはあの映画の鮮やかさのせいだ。
最後に、というなら「愛を読む人」だろう。
友人と一緒に劇場で映画を見たあと、原作を訳本で読み、次に原著も読んだ。
あのときの気持ちに似ている。
あのときも、いつまでも耳の奥に響く優しい音があった。
私はしばらく、その音を大切に抱いていた。

「考えるな、感じろ」という類いの投げ方は好きじゃない。
考えた上で感じるのであり、感じた上で考えるのだ。
口数の多い映画、ことに最近のハリウッド映画は、そのどちらも封じてしまう気がする。

口数が増える理由はいくつもある。
「説明しなければ相手には理解できないと思っている」
「説明さえすれば相手には理解できると思っている」
「理解してもらいたいと強く望んでいる」

あるいは、
「詮索されたくないことがあるから説明で埋めてしまう」
などである。

鑑賞者の判断よりも先に、その作品が「消費」か「創作」かというコンテクストは予め存在する。
それは決めようとして決めることではない。
そのように自然と構成されてゆくのだ。

「老眼鏡が似合うかどうか」は大切なことだが、「老眼鏡がどのように似合っているか」はもっと大切だ。
それは一朝一夕で創れるものではないからだ。