仕事と勉強と恋

KONICA MINOLTA DIGITAL CAMERA
昔の静さん。女優だねぇ。
明るくてキラキラしてて生命力に溢れた場面が彼女には似合う。
だけど、だったら別に彼女の名前は「静」である必要はなかった。
彼女を作ったときに、すでに「静」という名前は決まっていて、
だから余計にこの写真を撮ったときは妙にそぐわない心地がしたんだ。
理由はすぐに知れた。
「王の風葬」の作中で彼女が見せたあの表情こそが、
彼女の真実に近づくための鍵なのだ。
私はそれを正確に読み取らなければならない。
マシーだって女優だったからな。
人形を相手にするのは本当にしんどい。
でも私がやらなければ。
いま私の手にあるバトン、あるいはタスキを次に受け取る人が、
初めからコースアウトして途方に暮れるようなことがあってはならないから。

派遣就業先の仕事がエライことになっているせいで、
昨日は21時40分退社、今日は19時過ぎ退社で体調もすこぶる悪い。
自分の無能のせいでこうなってるならまだしも、
何ヶ月も前から情報が錯綜して、上役同士の意思疎通がまるで出来ていなくて、
共有していない情報ですらいつの間にか共有していることになってて、
挙句50歳近い男性同士が「どっちが悪者か」という口論を展開し、
その間、一切の自分の仕事を止められていてこの始末なので、
うっかりすると巨大化して口から火炎放射でもしかねなかったのだ。
でもしなかった。がんばった。結果的には何とかなった。たぶん。

でも先週から体力も精神面でもガタガタで、さっぱり座禅に行けていない。
座禅に行けてないからガタガタなのかもしれない。明日も無理かろうし……。

勉強は、黒豆を一粒ずつ箸で重箱に詰めるように、あるいは、
囲いの中に羊の群れを追い込むように、やっている。
進んでいるとか捗っているとかいう言葉は相応しくない。
これはどんな作業でも同じだ。果てしない。終わりはない。
「ここまででいい」という妥協点もない。
それが創作に生きるのか、といったら微妙なところだ。
別にそれそのものが私の創作に与える影響なんて皆無に等しい。
ただ、私が延々と考えてきてそれを「発見した」と思い、
展示会でえらそぶって語ってきたことを、
ショーペンハウエルの本の中に発見してずいぶん恥ずかしい思いをした。

私が勉強だとか読書だとかをし始めたのは、
パズルのピースとピースの関連性を探すためであったり、
ピース群同士を結びつけるシナプスを探すためにほかならない。
Amazonだか何だかのユーザレビューで、
「内容が薄く期待はずれだった」などとよく見かけるけれども、
そうやって他人の作品の中に何か宝物が眠っているように思っている人は、
ずいぶんともったいない読み方をしているものだと思ってしまう。
「内容」そのものは自分の中にある。
それを呼び起こす鐘であったり、扉を開く鍵が書物だ。
そうやって辿っていけば、良書と悪書の選別は大して難しくない。

なんだか愚痴っぽくなってしまった。
派遣就業先の仕事で体力や気力がマイナスまで削られていることと、
足の指にウオノメが出来たことを渋々受け入れたせいかもしれない。
ウオノメなんて生まれて初めて出来た。しかも最近少し外反母趾気味だ。
生まれて初めてインフルエンザにかかった厄年だし、
ウオノメぐらい出来てもおかしくはなかろう……。

そういえば、インフルエンザウィルスについてちょっと調べたのだけど、
ウィルスという連中は実に美しい見た目をしている。
インフルエンザにかかった時は本当にもう死ぬんじゃないかと思ったが、
あんな美しい物体が私の細胞を騙して増殖していたのだから、
とんだ悪女に引っかかって痛い目を見てしまったと思うより他あるまい。
来年も季節性インフルエンザにかかってもいいように、
ちょっと会社に行かないぐらいでは困らない程度の貯金をしようと思ったのだった。

人生には恋が必要なのだ。

展示の記録帳

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第一回の展示からずっと作っていた記録帳。
実は今作り直している。
フォトクレヨンというナカバヤシかどっかのアルバムを使っていたのだが、
これはアルバムとしては優秀だけど記録帳としては制約がありすぎる。
結局、スクラップブックにまとめることにした。
さほど展示歴も長くはないから今ならまだ取り返しがつくだろうと思ったら、
とんでもない作業量になってしまった。
そもそも過去の展示をひっくり返すのがしんどい。
途中、何度か行き先を見失って迷走している展示なんかは、
もはや記録にも残したくないぐらいだ。
でもその迷走にも確かに何かの手がかりがあったのだ。
この先の手がかりになるかもしれない。

「そっちじゃないよ」と何度も言いたくなる。
でも別に間違いではなかったのだ。
なぜなら、私はいまここに辿り着いたからだ。

ジグソーパズル

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何が何やら!!!

しかし、「カオスを恐れてはいけない」とケロケロ様は言う。
そのカオスは例え収拾がつかないように感じても、
長い間「それ」として存在し続けたということは、
必ず何らかの秩序を持っているはずなのだ。
それを解明しない限りもう先には進めないところまで来てる。

「収拾がつかなくなる」ことをおそれてたら何も進展しないのだ。
そんなことは解ってる。

落ち込んでる暇なんかないのになぁ。
この土日は延々引き込もってネガティブに過ごしてしまった。
うつ病なんかさっさと治してしまいたいよ。

疲労

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頓服薬を入れてるチョパ缶。
可愛いのだ。
最近、やっとスリラーバーグ編を読み終わりました。
結構長い気がしてたけど、実は短かったんだな。
未来の大剣豪と可愛いコックさんがどんどん仲良くなっててハラハラしますよ……
以前、私のサイトを見てくださった二次創作の方に、
少しも腐臭がしないので人違いかと思った
って言われたことがあって。
このサイトで腐臭漂わすことは不可能ですが、
たしかに私もお腐れであります、と解説して事なきを得ました(何。

先日の心療内科の診察で、
「今は全部その場しのぎの処方だけど、
このまま悪くなるようならまた考えた方がいい」
との忠告を受けました。
鬱の原因とか、どうしていけばいいかとか、
そういうことは頭では解ってるんだけど、
なかなか体もついてこないし難しい。
どうしたらいいかってところは確かに理解はしているので、
その場しのぎの頓服薬だけでも持ち直せればって思ってたけど、
だんだんとそれだけでは持ち直せなくなってるのも事実で。
だけど抗うつ剤入れると頭働かなくなるから、かえってイライラしそう。
前は今ほど考えることなかったからまだ飲めてたけど。
副作用もツラいしな。
また持病の症状が出る季節になるのに、副作用の面倒まで抱えきれないよ。
薬代もばかにならん。

とりあえず、1日1回だった安定剤を3回に増やしてもらって様子見。
自殺未遂を繰り返した頃のアレがあるから大したことない気がしてるだけで、
本当は私いま結構深刻なんじゃないだろうか? という疑念。
季節の変わり目だから不安定なだけだと思うんだけどなぁ。

今朝は座禅にも行かずに布団の中で延々唸ってました。
起きられたのは昼過ぎ。
確かにこりゃ悪化しとるな……。
今日中に仕事やっつけて、明日はアレコレ考え事したりだらだらしたりしたい。
やっぱり疲れてるんだな……ヤレヤレ。

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桜が咲いている。
散って川に流れていく。
春はゆるやかに流れていく。

死に関する話題は、長らく私たちのタブーだった。
死を語ることは自殺の手段を語ることだった。
そしてそれは自分自身以外の全てを拒絶することを意味した。
いまは違う。
死への憧れはその甘美さを失い、穏やかで優しいものへと変化した。

死に場所を探す旅は希望に満ちている。
自分の臨終の地を探す旅は夢で溢れている。
そうやって見つけた場所で、終われるとも限らない。
目指していくことしかできない。
目指していくことはできる。

おれたちの旅は、まだ始まったばかり。だ。

通り過ぎる春

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病院で薬をもらって午後から出社しようと思っていたが、
まあ、無理することもないんじゃない?
半年ぐらい休めば?
と、背中を押されて今日は休みをとった。
さすがに半年は休めない。

京浜東北線が快速運転の時間なので、昼間に病院に行くと上野まで歩くのが定例。
桜に誘われて上野公園に入ったら、もう満開を過ぎていた。
上野の森美術館を覗くと、VOCA展の会期中だったので入ってみた。
先日のサロンど東京フレッシュ展でお世話になった織田先生が作ったという展覧会。
ここに作品を並べるには推挙が要る。年齢制限もある。
公募展ではないから当然だ。
私の作品が並ぶことはない。
私自身がアクリル板に覆われてしまったような気持ちになり、
私はただ通り過ぎるしかなかった。

春はもう終わろうとしている。

宗教

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それがどんな季節でも、季節の変わり目には必ずNを思い出す。
今なおあの頃から私と共にある土井と永森は、
それぞれに生前の彼に対する立場が違っていた。
土井は直接にはNを知らない。
永森はずっと目の当たりにしてきた。
そしていま最も私の近くにいる鵜川は、何もかもを知らない。

思い返してみると、Nは超新星爆発のような存在であった。
彼との出会いから突然の別れまでの間に、
あらゆる痛みと苦痛、歓喜と幸福を溢れんばかりに注ぎ込まれ、
そしてその間、周囲はただ混沌を極めていた。
おそらく彼と出会う前から、私はその混沌の渦中にいた。
いや、混沌を構成する1つの物質だったのだ。

彼の短くも激しい生の間に、われわれ混沌は撹拌され、
そしてある流れを構成するようになった。
混沌ではなく、彼を中心とする流れになった。
彼は、その奔流が激しさを極めた時代に、突然、自ら命を断った。

それは激しい衝撃となってわれわれ奔流を襲った。
自らの流れの方向を理解し、自発的に運動を始めていた者以外は、
そのことごとくが自我を保つことすら困難だった。
我が愛しのK/Tですらその衝撃に打ち勝つことはできなかった。
K/TはNの死後8年も傍にいてくれたが、やはり彼も自殺した。

それからは苦しい時間となった。
バラバラに打ち砕かれたわれわれ奔流は、もはやその激しさを失い、
せき止めれば簡単に絶える小川のようなものだった。
ただひたすらに、切り離された自分の半身を探し続ける時代が訪れた。
Nの死後から交流のあった土井と再会したのもこの頃だ。
土井は鵜川を伴っていた。
やがて冷たい岩盤を、ぐるぐると回転させて惑星を形成する時代になり、
ようやく大気を呼び込もうという頃に永森と再会した。
永森との再会は、あの頃から寸断されていたようだった時間が、
たしかに現在とひと続きであることを思い出させてくれた。

あれは宗教だったのだろうか、あるいはカルトだったのだろうか。
長らく禁句だった話題が出るようになったのは、
私がオウム真理教事件に関する本を読み始めたからだろう。
Nを直接知る永森は、「あれは教祖なんてタマじゃない」と言った。

「予言もせず教えも説かなかった。空中浮遊もしなかったし、自分を解脱者だとも言わなかった」

Nは仏教者だったが、仏道修行のようなものは何もしなかった。
時々話して聞かせる内容は、いつも俗っぽく脚色されていた。

「ただ苦しんでいたんだ。彼は人一倍駄々っ子で、人一倍苦しんでいただけだ」

永森は、あの頃のわれわれ混沌や奔流のことを「サークル活動」と呼ぶ。
だがそれでも、私にとってNはただひとり信仰の対象なのだ。
彼だけが私の足元を照らす光だ。
そう言うと、鵜川は厳かな面持ちでこう言った。

「そう思うなら、たしかにそれは宗教なのだろう。誰にも伝承されることのない、ただひとつの」

ダイソーのやつ。

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ダイソーのふせんと情報カードが本当助かる。
最近、紙モノの消耗品を上手に作ってくれるのでありがたい。
ただ、ふせんは袋から出して小物スタンドに立てておいたら、
先の方がカールして曲がってしまった。
使うぶんには取り立てて不自由はしないけど、
気になっちゃったら最後、ずっと気になっちゃうかもな。

情報カードは、ライフハックのひとたちが一時期けっこう騒いでて、
えー、どうせ100円程度のものなんでしょ、って思ってたけど、
買って使ってみたら使えないこともなかったというもの。
長く使うことを前提にしてるものはコレクトのカードに書くけど、
すぐに捨ててしまうようなものまでコレクトにしてたら酷い無駄だ。
かといって、ある程度の質は欲しい。そんなカード書きに丁度いい。

私は今、納期管理とかTODO管理を43Tabsシステムでやってて、
しかもそれをコレクトのMDFカードケース内の一画で運用してるから、
できるだけ箱の中身は5×3情報カードに統一したいのだ。
そこに放り込んでおくカードとしてよく使う。
43TabsシステムとかMDFカードケースについてはまた別口で。
これがわからないとなんのこっちゃって感じだが……。
気に入ったのは、セクションの印刷が揃ってることかな。
これもPoIC知らないとなんのこっちゃか……。
もやもやツールズのほうでそのうち書きたいもんだ。

最近、手で書いたり本を読んだりするほうに注力してるせいで、
サイトの運営状況があんまりよくないな。
配信とかもやりたいんだけど。万年筆の話とか。うーん。

まえにどこかのエントリで、「パズルのピースを起こす作業」と書いたが、
それはまさに「ピースをひとつずつ作る作業」だ。
その「ピース」の材料になるのが、ふせんであり情報カードである。
だからモチベーションキープのためにも、
できるだけお気に入りの材料を使ったほうのがいい。
私の「文房具好き」は、そういう材料を吟味する過程で培ったものだから、
見た目やブランドより、使い勝手が最優先になる。
そうやって探していくにつけ、やはり老舗の考え抜かれた商品には、
ぽっと出の浅知恵新商品では太刀打ちできないと感じる。
表面だけ取り繕ってそれらしいものを作るだけなら、
別に何も作らなくたって誰にも影響はないのだ。

うむむ、なんだか自分で自分の身につまされてしまった気がするな。

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先を急ぐ足を掴まれて、苛立ちと怒りの沼に引きずり込まれるかのようだ。
手を伸ばして祈ろうにも、もはや疲れはてた腕は萎えて動かない。

例えどんなに苦しくとも、それが誰かの邪魔をする言い訳にはならないのだ。
そう教えられた気がする、と話した私に、ウシロは冷たい目を向ける。
違うよ、と。

「『例えどんな理由があったとしても、それは誰かの足を引っ張ってもいい理由にはならない』の間違えだよ」

彼は正しい。